ウェッジウッド・アトラス デスククロック H9cm 【ブランド箱付】英国製 [93320158]

ウェッジウッド・アトラス デスククロック H9cm 【ブランド箱付】英国製 [93320158]

販売価格: 16,410(税込)

在庫数 20枚

商品詳細


アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
完全英国製 ENGLAND ロゴ
ハンドトランスファー 手工芸品
21世紀の指針

サイズ:高さ9cm
素材:陶磁器
※モニターの発色の具合によって実際のものと色が異なる場合があります。
アトラースは、ギリシア神話に登場する神である。日本語では長母音を省略してアトラスともいう。巨躯を以て知られ、両腕と頭で天の蒼穹を支えるとされる。
名前は「支える者」・「耐える者」・「歯向かう者」を意味する古印欧語に由来する。
ティーターン神族の一柱のオーケアノスの娘クリュメネーの息子。アルカディアのキュレーネーにおいて、オーケアノスの娘プレーイオネーとの間にプレイアデスと称される7人の娘をもうけた。またオーケアノスの妃であるテーテュースとの間に女神カリュプソーをもうけた。
ティーターン神族がゼウス達との戦い(ティーターノマキアー)に敗れると、アトラースはゼウスによって、世界の西の果てで天空を背負うという役目を負わされる事となった。
この役目はアトラスにとって、苦痛を伴うものであった。そして後に英雄ヘーラクレースが、アトラスを頼って訪れて来た。
彼はエウリュステウス王に、ヘスペリデスの庭園から黄金の林檎を取り、ミュケナイへ持ち帰るよう命じられた(ヘーラクレースの11番目の功業)のだが、肝心の庭園の場所が分からなかった為、コーカサス山に縛り付けられていたプロメーテウスを救い出し、彼に助言を求めた。
そして彼からアトラースの所へ行ってみてはどうかと言われたのである(アトラースは庭園に住むヘスペリスたちの父であった)。ヘーラクレースから黄金の林檎を手に入れたいと相談されたアトラースは、自分が天空を支える重荷から逃れたい事もあり、ヘーラクレースに対して、自分が庭園に行って林檎を持ってくるから、その間天空を代わりに支えて欲しいと頼んだ。
こうして天空をヘーラクレースに任せたアトラースは庭園に行き、林檎を持って帰ってきた。しかし、再び天空を背負う事が嫌だった彼は、ヘーラクレースに対し、このまま林檎をミュケナイまで届けてやるから、もうしばらく天空を背負っていてくれと言った。
勿論これはアトラースの企みであった。ヘーラクレースはその事に気が付き、逆にアトラースを騙すことにした。彼は、アトラースの言う事に納得したふりをしつつも、このままの背負い方を続けるのは辛い、どうすればもう少し楽に背負えるか教えて欲しいと言った。
結局、この言葉にアトラスは騙され、彼が天空を背負って見本を見せている間に、ヘーラクレースは林檎を手に取り、エウリュステウス王に渡すべくミュケナイへ行ってしまった。
こうしてアトラースは再び天を背負う事になった。
なお、この他、アトラースが林檎を持ってヘーラクレースの所に帰ってきた時、(渋々ではあるが)自分で再び天空を背負い、ヘーラクレースに林檎を渡して帰らせたと語られる事もある。
別の神話によれば、メドゥーサを討伐したペルセウスがアトラースの元を訪れたとき、ペルセウスが持っていたメドゥーサの首により、アトラースは石と化す事となった。なお、その経緯については諸説あり、天を支えるという重荷に耐えかねたアトラースが、ペルセウスに頼んでメドゥーサの首を見せてもらい、石と化して、重荷から解放されたという話や、ゼウスの息子が将来、自分の黄金の林檎を奪いに来るだろうと聞かされていたアトラースが、自分を訪ねてきたペルセウスを追い返そうと、あるいは殺そうとした(ペルセウスはゼウスとダナエーとの間に生まれた子であった)為、逆上したペルセウスによって石と化した話等がある。そして、アトラースが石となった名残りが、アトラス山脈であるという。
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ハンドトランスファー 手工芸品
21世紀の指針
1756年 ドイツ・プロイセンのフリードリヒ大王は イギリスと軍事同盟(ウェストミンスター条約)を結び ザクセン(マイセン)・ロシア・フランス・オーストリアを敵に回し 7年戦争の火蓋を切りました。
鎧袖一触 又も マイセンを狙って ドレスデンを占領しました。この時 大王は マイセン窯から 職人を引き抜き 挙句は 戦費調達に 瀕死のマイセンを 売り飛ばすのです。
ウェッジウッドは ヨーロッパ中を捲き込んだ 7年戦争真っ只中の1759年 バースレムの地に ジョサイアによって 生み出されました。
ジョサイアは 製陶を生業とする ウェッジウッド家の 第13子として 1730年に誕生しましたが 11歳の少年の頃 天然痘にかかり 右足が不自由になり 1768年には 悪化した右足膝下を 切断しております。
しかし 強い意志の彼は このハンディをものともせず 倦まず弛まず 天分に磨きをかけ 後に「英国陶工の父」と尊称される程の人物になりました。
1769年 古典芸術に造詣の深い パートナー・ベントリーと スタッフォードの地に エトルリア(古代美術の栄えた イタリアの都市名)工場開設。ジョサイアの 古典芸術に対する憧憬と その復刻に燃える情熱から 命名された。
この年 この地で行われていた 無釉黒色せっ器を改良して ブラックバサルト(玄武岩)を完成(1707年 ベトガー完成の朱泥せっ器に同じ)。ジャスパーウェアの魁です。リバプール港への 運河を開鑿したことも有名です。
彼の進取の気性は 女王御用達陶工でありながら 反するアメリカ独立戦争・奴隷解放運動への大口基金寄贈者であった事からも 見て取れます。
1795年 王立協会員・初代ジョサイアは 栄光と賞賛の中 惜しまれながら この世を去りました。
彼の天分は 息子ジョサイアII世に受け継がれ 脈々と生き続けました。エトルリア工場は 1950年 現在のバーラストン工場(ストーク・オン・トレント)に 180年の長き 伝統を引き継ぐまで 繁栄を続けました。
ポートランドの壷
古代ローマ(紀元前27年~紀元14年頃)作のカメオガラス。1582年 古代ローマ皇帝の墓所で 発掘。めぐりめぐって英国国宝となった この壷を 5年の歳月をかけて 1790年 ジャスパーウェアで ジョサイアが 完全復刻に成功。
彼の名声は 弥が上にもまし 彼の誇りの象徴となつた ポートランドの壷が 末永く ブランドロゴに採用されております。
ボーンチャイナ
英国では 磁土(カオリン)の産出がなく 硬質磁器を作るのに 大陸から輸入して いくつかの窯で 細々と試みられていました。
一方で カオリンに代わるものを求めて 試行錯誤の末 1749年 トーマス・フレイが 牛骨を焼いた骨灰にたどり着きました。1795年頃 この軟質磁器の 工業製品化に成功した1人が ジョサイア・スポード二世でした。
さらに1819年現ザロップで フェルスパー(長石)が発見され 多くの窯で フェルスパー・ポースレーンの開発競争の中 この時代を リードしたのが 又 逸早く工業製品化に成功した ジョサイア・スポード二世でした。英国ボーンチャイナ確立
クィーンズウェアに続く このジャスパーウェアの 大ブレークが 先見の明あるはずの ジョサイアの目を曇らしたのか 後に隆盛を見る ボーンチャイナの開発に 余り関心なく(1780年 ブリストル硬質磁器窯の 買収提案を拒絶)結局ジョサイア二世による 1812年にと 大幅に遅れることに なりました。
しかしこれとても 先発するスポード社などに 及ばず 1828年には 取りやめました。
今 ウェッジウッドの 中核をなすボーンチャイナへの 再チャレンジは 1878年の遅きになりました。
やがて 研究熱心なウェッジウッドでは ワイルドストロベリー(初代 ジョサイア・ウェッジウッドが残した 8冊 約10000点の パターンブック 初版1769年頃 再版1810年 から 1806年に発表された ワイルドストロベリー。現在のパターンは 1965年発売)を 始 多くのヒット作の 中核的素材となる 美しいファインボーンチャイナを 完成させました。
余談になりますが ウェッジウッド家の 科学研究的優秀さは 中世最高の科学者「進化論」のダーウィンを 血脈としたこと(ジョサイアの娘スザンナの子が チャールズ・ダーウィン すなわちジョサイアの孫になります)でも有名で 世に喧伝されました。

ウェッジウッド・アトラス デスククロック H9cm 【ブランド箱付】英国製



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